レグルス王国の物語

たけくらべ 第二話:二人を引き離す者たち(後編)

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司の動きはいったん止まった。
だが、監視は今も続いている。

周囲の男たちも女たちも、相変わらず騒がしかった。
身分差を知りながら、なお司と結ばれたいと願う者は後を絶たなかった。

その一方で司は、国内外の限られた観光客と、さらに選ばれた者たちのために、「ランウェイ」と呼ばれる着物のショウを行っていた。
それは本当に、選ばれた者しか見ることのできない催しだった。
チケットは発売と同時に消え、京都に場所を移しても事情は変わらなかった。

いまの言葉で言えば、パリ・コレクションに近い。
だがそれよりも、ずっと異質で、ずっと静かな熱を孕んでいた。

司は、人が一人すっぽり入るほどの巨大な鳥籠の中でオペラを歌い、あるときはランウェイで着物をまとって歩く。
観客はそれを見つめ、心を奪われ、やがて着物を買う。

今では観光客の多くが大量生産の着物を身につけている。
だが本来の高級着物は、外では決して見ることはない。
国の管理下に置かれ、あるいは豪商や身分の高い者の屋敷で鑑賞されるだけで、結婚式や特別な儀式のときにだけ、静かな室内で着用される。

ところが司のランウェイは違った。
高級な着物を、外で歩く。
しかも司の着物は、本人にも予測できない瞬間に、色を変える。
観客のざわめきや息づかいに、感情そのものに反応するかのように。

それはもはや衣装ではなく、ひとつの芸術だった。
誰も見たことがなかった。
そして、誰も本当の凄さを理解していなかった。

金の模様が入れば、値は三百万を超える。
国宝級の職人が仕上げれば、一千万は下らない。
司はそれらをすべて着こなしていた。
しかも早着替えをすることなく、たった一人で、自分の力で模様と色を変えてみせた。

観る者は、不思議な感覚に包まれ、言葉を失った。
最初、京都では批判も多かった。
だが気づけば、その存在は確かに根を下ろしていた。

司には独特の言い回しがあった。
ランウェイを開くたび、「よろしく頼みます」を短くして「よろたの」と言う。
意味が妙に気になるが、きっとそれでいいのだろうと、かつて師から聞いたことがある。

さて、ここから先は、私とみどりの話である。

香奈乃に話をするためだけに会いに行ったことが、みどりは気に入らなかったのだろう。
茶屋で再会しても、彼女は同じ道を歩こうとしなかった。

それでも、これから先、共に歩くために。
同じ歩幅で、同じ速度で進むために――
私は、みどりの背中を静かに見つめていた。


明治二十年。
フランスの Rigaut 社製の香水が大崎組商会によって日本に持ち込まれ、「鶴香水」と名づけられて売られたという。

みどりは香水が好きだった。
香りの話になると、彼女は少しだけ声が弾み、まるで遠い世界を思い出すような顔をした。

もし鶴香水をもらったら嬉しいか、と私は尋ねた。
もちろん嬉しい、と彼女は答えた。

それなら今度、部屋に届けに行く。
今日はもう帰ろう――そう切り出すと、みどりは静かに頷き、私と歩幅を揃えて歩き出した。

後日、私は大崎組商会で鶴香水を買い、ただそれを届けに行った。
それ以上のことは、何もなかった。
それでも、みどりの表情は柔らかかった。
私は、それだけで安心した。

しかし、檀家と寺の関係が変わったわけではない。
香奈乃との関係も、無かったことにはできなかった。
家のことを考えれば、香奈乃を選ぶことが、いちばん正しい選択だった。
当時は、正解を選ぶことだけが正解で、正解以外を選ぶという発想そのものが、許されなかった。

それでも私は、みどりの気持ちを優先したかった。
だから香奈乃に、きちんと話をしようと思った。
これからは、みどりのそばにいたい――それだけを、伝えるために。


みどりは、何かを決意したように見えた。
「誓います」と言った。

だがよく聞くと、
ダイエットをする、という話だった。

みどりは本気なのか冗談なのか分からないことを、よく口にした。
真面目な話を避け、
本当に向き合おうとすると、静かになり、
誰も寄せ付けない空気をまとう。

おそらく彼女は、
香奈乃を選ぶのか、みどりを選ぶのか、
はっきりさせてほしかったのだと思う。

そして香奈乃もまた、
その立場を、誰にも譲るつもりはなかった。

私は、二人に争ってほしくなかった。
だが、争うなとも言えなかった。
もしそれが私の勘違いなら、
それはひどく恥ずかしいことだった。

けれど、時には、
恥を捨ててでも勘違いをしてみることが、
正しいときもある。

だから私は、
大きな争いが始まる前に、
二人と距離を置くことにした。


春が近い冬のことだった。
みどりは、なぜ私が距離を置いたのか、分からない様子だった。

嫌われたのかもしれない。
香奈乃を選んだのだと、勘違いしたのかもしれない。
みどりの中には、自分の誇りを守ろうとする警戒心と、
自分の身を守ろうとする静かな恐怖があった。

そして、みどりには、
どうしても治さなければならない病があった。
もし手術を受ければ、目の前が闇のまま、
二度と戻らない可能性もある――
そう言われていた。

それだけで、心が揺らぐには十分だった。

そんなとき、香奈乃は、
これから一月ほど、芸の道から離れると言った。
だから、その前に会いに来てほしいと。

なぜ、この時期に。
なぜ、みどりがこんなにも不安定なときに――
私は、そう思わずにはいられなかった。


私は、みどりも香奈乃も選ばないまま、
二人を宙づりの状態に置いた。
その中で、
次はどちらが先に選ばれるのか、
どちらが先に“勝つ”のか――
彼女たちは互いを意識し、競っているように見えた。

みどりは、香奈乃と同じ芸能の道へ進むと決めた。

結果は、誰の目にも明らかだった。
どちらが上で、どちらが下か――
それはここには書かない。
だが、二人とも、その実力差を、はっきりと理解していた。


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芸能とは、
どれだけ客を呼べるか。
それだけの世界だ。

どれほど誠実であろうと、
どれほど自分の歩幅を守ろうと、
より多くの客を集めた者が、ただ上になる。

初めは差などなかった。
だが、月を重ねるごとに、
その差は、はっきりと、残酷なほどに開いていった。

だから、勝った者が選ばれる。
世界は、そういう空気を、
当然のように醸し出していた。

けれど私は、
空気で人を選ぶのではなく、
選びたいから選びたかった。

争う者たちの圧力に、
自分の感情を押し殺して従う――
それだけは、どうしてもしたくなかった。

そして私は、
鶴香水をみどりに渡したその日を境に、
仏の道へ進むことを決めた。

いま、私たちは互いを恋人だと思っている。
だが仏はそうではない。
すべての執着を捨て、
関係そのものを解く。

恋人のような関係ではなく、
執着を離れ、
ただの人として向き合えるようになること。

それには時間が要る。
言葉では届かない。
何より、感情がそれを許さない。

そばにいれば、
どうしても感情が関係を形づくってしまう。

だからまず、
私のことを忘れてもらうこと。
そして、関係が恋人ではなくなったとき、
また会いに行きたいと思った。

旅立つ前、
私はみどりの家の前に立ち、
格子戸の外から、水仙の造花を一輪、
黙って投げ入れた。

それから、何も言わず、その場を去った。

みどりは、その造花を見つけ、
送り主が私だと確信しながら、
もはや純粋な少女時代には戻れない
自分の境遇を悟り、
静かに涙を浮かべた。

その造花は、
みどりの清らかな美しさを、
永遠に心に留めたいという、
私の願いだった。

そしてそれは、
決して叶わぬ恋の、証でもあった。


後から聞いた噂では、
話はこのように整えられていた。
人は、事実そのものよりも、
納得できる筋書きを欲しがる。
そして、納得できる筋書きほど、
よく流通する。

だが、私が知っている事実は違う。

みどりは、誰かに追い払われたのではない。
みどりは、自分の意志で、
自分から身を引いた。

――身を引いた、というより、
先に扉を閉めたのだ。

みどりは、「選ばれない」ことを拒絶した。
拒絶したかったのは、私ではない。
拒絶したのは、
「自分が選ばれない」という可能性そのものだった。

みどりは、自分の容姿に自信があった。
そして、いつしかそれだけが、
自分のすべてになっていた。

美しさは、みどりを救った。
同時に、美しさは、みどりを縛った。

外見が価値になる世界では、
外見が揺らげば、
世界そのものが崩れる。

もし、「私は選ばれていない」と知ってしまえば、
みどりは、耐えられなかったのだと思う。
だから、先に自分から拒んだ。
そういう形にして、
心を守った。

それは誇りだった。
そして、防衛だった。

内面を褒められても、
素直に受け取れなかった。
どこかでそれが嘘に思え、
自分の中に居場所を作れなかった。
だから、外見だけに賭けた。
それだけが確かなものだと、信じた。

だが、その賭けが否定されそうになったとき、
否定されるのは、評価ではない。
人生そのものだ。

みどりは混乱し、動揺し、
その瞬間、正気ではいられなかった。

私は、距離を置こうとした。
争いが始まる前に、
一度、離れようとした。
だが、そのための時間さえ、
私には与えられなかった。

みどりは、私と会うことを拒んだ。
再会は、今も閉ざされたままだ。

それでも、この物語には、続きがある。

これは、
私からみどりへのレクイエムである。

もし、十年後、
また会える日が来て、
それでもなお、同じ気持ちが残っているなら、
私はもう一度、
前のように素直に話せるかもしれない。

そのために、私は、
この先も描くことにした。


ここから先は、信如の言葉ではない。
この物語を書いている、作者自身の想いである。

「たけくらべ」の物語のように。
若くしてこの世を去った
樋口一葉と半井桃水の、
沈黙の恋の物語のように。

報われなかった物語ではなく、
報われた物語に――
私は、変えたい。


▶ 司の着物ランウェイの動画はこちら:

薄宵みどり ― TAKEKURABE – Midori Edition | Regulus Kingdom Kyoto


▶ 続きはこちら:

《たけくらべ》【第三話(前編):執筆中】


▶ たけくらべを最初から読む

《たけくらべ》第一話 誤解の月影横丁 — 檀家の追手と、勘違いされた二人


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