つかさの「決意前夜」— 静かな部屋で心を決める少女
いつものように、司は劇団TUKASAへ向かう。
背筋を伸ばし、歩幅を揃え、少しだけ口角を上げる。
余所行きの顔。
舞台の外で使う、しおらしい表情の和風美女。
それが、世間が知っている「司」だった。
けれど本当は、
球場で声を張り上げ、
帽子を深く被り、
好きな選手の一挙手一投足に一喜一憂する、
そんな無邪気な一面を持つ女だ。
普通、と言っていいのかどうかは分からない。
少なくとも、彼女自身はそう思っていない。
ただ、少しだけ人より感情の置き場が多く、
少しだけ別れに慣れすぎている。
今日はそんな、
「舞台に立つ前の司」でも、
「天女と呼ばれたつかさ」でもない、
どこか普通で、やっぱり少し普通じゃないツカサの話をしようと思う。
物語をより深く楽しんでいただけるよう、この記事の冒頭にBGMをご用意しました。
よければ再生しながら、ゆっくり『ツカサ』の世界をお楽しみください。
それは、二十年後の世界の話だ。
新幹線が空を走ることに、もう誰も驚かなくなった時代。
ツカサは、雪の降る北の国から、その空を走る列車に乗って現れた。
空から降りてきた、という言い方のほうが正確かもしれない。
人々は彼女を見て、口々にそう言った。
――天女のようだった。
――絶世の美少女だった。
だが、それが本当だったかどうかは分からない。
噂は、いつも事実よりも先に形を持つ。
この物語のツカサも、もしかすると本当の彼女ではない。
周囲がそう期待したから、そう“再現された姿”に過ぎないのかもしれない。
ツカサは、三つの名前を持っている。
ツカサ。
つかさ。
司。
最初に東京に舞い降りたとき、彼女は「ツカサ」だった。
音が強く、輪郭がはっきりした名前。
まだ何者にもなっていない者が、何者かに見えるための名前。
その頃、彼女は一人の男と出会った。
恋をした。
そして、別れた。
その痛みは、体よりも名前に残った。
ツカサは、その痛みを抱えきれなくなり、
自分から音を削るように、名前を変えた。
つかさ。
ひらがなの名前は、柔らかかった。
傷を隠すのに、ちょうどよい柔らかさだった。
つかさは、野球観戦が好きだった。
とある球団の、ひとりのバッターに心を奪われ、
全国のスタジアムを巡っては、声を張り上げて応援した。
その姿に、嘘はなかった。
だから人々は惹かれた。
無邪気で、まっすぐで、
何かを“失った人間”だとは誰も思わなかった。
数年後、つかさは、また一人の男と出会う。
そして再び、恋をする。
再び、別れを迎える。
つかさは何度も別れを経験した。
別れは、出来事ではなく、いつしか彼女の歩き方になっていた。
誰かと出会い、距離が縮まり、そして離れていく。
その繰り返しの中で、つかさは生きていたのではなく、
別れそのものを生きていた。
逃げようとした時期もあった。
忘れようとしたこともあった。
けれど別れは、振り払えば振り払うほど、
彼女の内側に深く根を張った。
やがて、つかさは気づく。
別れは、耐えるものではなく、
形を与えられるものなのだと。
彼女は別れを抱きしめ、
言葉にし、声にし、動きに変えた。
そうして舞台の上で、
別れは感情ではなく、ひとつの構造になった
つかさが演じたのは、
二度と戻らない瞬間ではない。
戻ることを前提としない、永遠の別れだった。
それは嘆きではなく、
恨みでもなく、
観る者の胸に静かに残る、
「ここで終わる」という確かな手触り。
別れを演じ切ったとき、
彼女の人生から別れは消えなかった。
だが、支配することもなくなった。
つかさは、
別れに翻弄される人ではなく、
別れを昇華する者になったのだ。
その演技は、究極だった。
なぜならそこには、
希望も、救いも、約束もない。
ただ、
終わったという事実だけが、
静かに、完璧な形で残されていた。
それ以上の演技は、存在しない。
彼女は長い髪を切り落とした。
だが、切り落としたのは髪だけだった。
忘れられなかった。
いや、忘れられなかったのではない。
執着していたのだ。
それは愛だったのかもしれないし、
怒りだったのかもしれない。
怒りから始まる愛も、この世には存在する。
やがて、つかさは決める。
MUSEから独立する、と。
FA宣言。
自由になるための言葉だ。
だが自由には、行き先が必要だ。
つかさには、MUSE以外の居場所がなかった。
結局、彼女はMUSEの別部門へと移ることになる。
自由を選んだはずなのに、
同じ建物の中を、少し違う通路で歩くだけだった。
そこで彼女は、ひとつの場所を作る。
劇団TUKASA。
それは帰るための場所ではなかった。
逃げるためでもなかった。
名前を三つ持つ女が、
最後に選んだ「立ち方」だった。
ツカサはもう、天女ではない。
つかさでもない。
司という漢字に込められた「司る(つかさどる)」という意味を、
ようやく引き受けようとしていた。
去ることは、終わりではない。
去る日は、選ぶものだ。
表現者が舞台を降りるとき、
それは敗北ではなく、
次の物語へ照明を渡すという行為なのだ。
この物語は、
誰かが去った話ではない。
去ることを、自分の言葉で選んだ者の物語である。
つかさは、絵が得意ではなかった。
字も同じだった。
そのことを、人に見られるのをとても嫌がった。
紙に向かうと、肩が少しだけ強張る(こわばる)。
線は迷い、文字はためらう。
それを指摘される前から、彼女はもう恥ずかしそうに笑っていた。
練習すればいいのに、と何度か思った。
練習すれば、きっと上手くなる。
そういう単純な理屈が、この世にはある。
けれど、つかさはそうしなかった。
上手くなろうとしない、というより、
上手くなってしまうことを、どこかで避けているようにも見えた。
理由は分からなかった。
聞いても、きっと答えは返ってこないだろうと思った。
分からないままにしておくほうが、
彼女に近づける気がした。
つかさは、リアクション王だった。
話し始めるのも自分、
驚くのも、笑うのも、話を転がすのも、全部自分。
言葉は軽やかに跳ね、
感情はその場で生まれて、その場で消える。
聞いているだけで、場は温かくなった。
楽だったし、楽しかった。
ただ頷いていればいい時間というのは、案外、貴重だ。
もっと長く話せたらいいのに、
そんなふうに思いながら、
つかさとの時間は過ぎていった。
彼女は、自分の話をしているようで、
どこか大事な部分には、決して触れさせなかった。
それでも、
触れられない場所があるという事実ごと、
一緒にいられた時間だった。
それだけで、十分だったのだと思う。
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