
香奈乃の屋敷に着く、その少し前のことである。
「……香奈乃さまのところへ行くのは、やめにいたしませんか」
みどりが言った。
足を止め、視線を伏せたまま、かすれた声で。
「どうしてですか」
信如は歩みを止めなかった。
「私と……二人で。このまま、ここで――ずっと一緒にいられませんか」
言葉は懇願の形をしていたが、声は静かだった。
あまりに静かで、信如は胸の奥で何かが小さく崩れるのを感じた。
「話し合わなければ、また誤解されたままになります。
刺客も、もう動いているのですよ」
「そんなこと……分かっています」
分かっている、と言いながら、みどりの手はわずかに震えていた。
二人の歩む道の両脇には、女たちが倒れていた。
空腹と疲労に蝕まれ、ただ座り込み、空を見上げている者もいる。
誰かの人生の残り香のような苦しみが、路地に静かに沈んでいた。
信如が手を差し伸べかけると、みどりの表情が硬くなる。
私は、もちろん、みどりが好きだった。
だが、彼女の感情は、ときに過剰だった。
人を助けるからといって、そこに恋が生まれるわけではない。
ましてや、触れたからといって、心まで渡すはずもない。
「私は仏の道を歩みます。
だから人を助けるのは当たり前になる。
そこに感情はなく、あるのは救いだけです」
「……私は気にしていません」
みどりは微笑んだ。
「どうぞ、他の方を助けてください。
私は見ていませんし、気にしていませんから」
その言葉ほど、気にしている言葉はなかった。
信如はそれ以上、何も言えなかった。
そのとき、視界の端に、かつて少しだけ関わった女の姿が見えた。
何度も、何度も。
視界に入るたび、心がざわついた。
忘れられないのだろうか。
あるいは、忘れさせてほしいのだろうか。
信如は静かに息を整え、呟いた。
「無動一心(むどういっしん)。
心、動かざるが故に、剣もまた動かぬ」
禅の呼吸とともに意識を沈めると、
視界から人影がすっと消えた。
誰も斬っていない。
誰も倒していない。
ただ、自分の心から、その存在を消しただけだった。
煩悩が剥がれ落ち、世界はみどりだけになる。
これで、別れずに済む。
やがて、男たちが現れた。
刀を携え、道を塞ぐ。
「若女将の命(めい)だ。この先は通さない」
「みどりの前で人を斬りたくない。
刀を捨てて、通してくれませんか」
「それはできぬ。ならば討つまでだ」
男が斬りかかる。
「花霞(はながすみ)」
言葉と同時に、桜が散り、男は崩れ落ちた。
「斬ったかどうか、誰にも分からない。
一歩踏み出しただけで、勝負は終わる」
さらに男たちが現れる。
「薄明(はくめい)」
夜と朝の境目のような剣。
気づいたときには、すでに全員倒れていた。
また男たちが現れた。
「残雪(ざんせつ)」
勝負の後、雪だけが残る。
「水鏡(みずかがみ)」
男の刀は空に弾け、逃げ去った。
やがて、また女たちが近づいてくる。
一人が信如の手を掴もうとした瞬間、
みどりの視線が冷たく光った。
「静」
漢字一文字の想念が、空気を沈める。
女は動きを止め、静かに座り込んだ。
「救」
別の女の表情がほどけ、何も言わずに去っていく。
「仏の剣は、人を傷つけるためのものではない。
人を助けるためにこそ、振るわれる」
居合の構え。
一瞬の抜刀。
刃は肉体に触れない。
斬るのは、心に溜まった衝動と執着だけだった。
そして、誰も二人を止めることはできなかった。
やがて、香奈乃の屋敷の門が、静かに現れた。
香奈乃の屋敷に着き、私はみどりに、門の外れの茶屋で待つように頼んだ。
本当は同行してもよかった。
だが屋敷には、身分の低い者は入れないという決まりがあった。
身分とは何なのだろう。
同じ人間でありながら、生まれた環境が違うというだけで、
人の価値や居場所が定まるというのは、どうしても腑に落ちなかった。
しかし、郷に入っては郷に従え――
私は自分にそう言い聞かせ、香奈乃のもとへ向かった。
私の目的はひとつだった。
なぜ、みどりと私が追われているのか、その理由を知ること。
香奈乃に会うのは、これが初めてではない。
親しいわけではないが、不思議と、何度も顔を合わせるようになった。
そして私は、ある奇妙な規則性に気づいていた。
私が親しくなる女性のそばには、いつも檀家の司の影が現れる。
まるで、その人の後ろを、静かに追ってくるかのように。
偶然とは思えない出来事が、あまりに重なりすぎていた。
私がその月の終わりに会った女性の名を書いた紙が、
決まって寺に届く。
そこには、いつも同じ言葉が添えられていた。
――お前が会う女性の身分が低ければ、
私はその者より、さらに低い暮らしをする。
食べ物も、住む場所も、
その者よりひとつ下のものにする、と。
司は、大檀家の若女将である。
何不自由のない暮らしが、約束された人間だ。
それなのに、私が会う女よりも低い生活に自らを落とす。
私は司に何かした覚えはない。
ただ、師と司の間に、ただならぬ噂があったと聞いたことはある。
だが、それは私には関係のないことだ。
それでも、司の本来の生活から遠ざけてしまうことに、
私は耐えられないほどの罪悪感を覚えた。
ときには、傍にいたい女性から距離を置いたこともある。
その点、香奈乃は、司にとって都合がよかった。
生活の水準も、立場も、互いに釣り合っていた。
だが、本来の司は、それ以上の人間だ。
香奈乃の水準に合わせる必要など、本当はない。
一方で、みどりはまだ働ける年齢ですらなかった。
私は、みどりを選ぶという選択を、どうしても取れなかった。
司は、ついには何も食べないほどの生活にまで、自らを追い込んでいた。
私は司に会いに行こうとした。
だが、屋敷は寺の人間であっても立ち入ることを許さなかった。
司を餓死させてしまうのではないか。
そんな恐怖が、胸を締めつけた。
同時に、香奈乃に会えば、みどりの心を傷つける。
どちらを選んでも、誰かが傷つく。
どうにもならない、閉じた迷路のようだった。
私は香奈乃に尋ねた。
今回の件に、司が関わっているのか、と。
香奈乃は、信じているのか、いないのか分からない顔で、
ただ話を聞いていた。
言葉は噛み合っていないように感じられた。
私がみどりと会い、
その月の終わりに香奈乃と会えば、
それで全てが収まる。
たったそれだけのことなのに、
みどりは、きっと理解してくれない。
結局、何ひとつ解決しないまま、年が明けた。
すると不思議なことに、司は京都へ移ることになった。
突然の辞令だった。
理由は分からない。
だがその年の一月を境に、
司は生活を落とすようなことを、やめた。
それでも、遠くから見られている気配だけは、消えなかった。
寺には、司の近況を記した封書が届く。
司の周囲は、常に騒がしかった。
何を考えているのか、分からない女だった。
屋敷にも、寺にも、檀家にも、
いつ現れるのか分からない。
ただひとつ言えるのは、
そこまで執着するには、何かとてつもないことがあったのだろう、ということだ。
いつか師に、話を聞かなければならない。
ちなみに――
私は司には、何もしていない。
それだけは、確かだ。
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