私は多様性を理解し、受け入れています。
そのうえで──
人が“所有”を通じて、物を子供や恋人のように擬人化し、
痛みを麻痺させながら感情を失っていく文明も、否定はしません。
けれど一方で、
人の感情や痛みを理解し、共鳴する文明もまた、
ひとつの選択肢として提示していきます。
それが、レグルス王国の立場です。
#文明更新 #レグルス王国 #多様性の時代へ
人形には、家族も先生も友人も、学校の関係もない。
誰の嫉妬も評価も寂しさも背負わず、
経済的な不安も、他者の期待も、尊敬も必要としない。
——痛みのない、“自分だけが存在する世界”。
その構造は、人類が古くから続けてきた
**「所有を基盤とした文明」**の写し鏡でもある。
権力や富の象徴として、人を支配し、人形のように扱ってきた歴史。
所有は楽しい。
では、所有される側はどう感じていたのだろうか?
スマホを子供のように扱い、スマホに紐や布を纏わせて、育てるという宗教を始めた。
色により差別化を図り、ステータスとさせる。
そこは一種の文明の退化でもある。
文明が退化するとどうなるか?
人は機能性に身を任せ、感じることも考えることも失われていく。
そして楽しい、気持ちいいという快楽のみを求め続ける。
相手に選択を委ねて自らその選択肢の中から選び、相手が好まない選択をあえてし、相手を困らせる事で自分の存在を感じる。
自分には相手の選択よりも自分の選択に価値があると、そのものに価値を見出す。
それは、その人個人の問題ではなく、古来から続く支配の構造である。
人は物を所有し、所有することで価値を感じていた。
自ら表現する事をやめ、次第に感情も便利さに奪われて目の輝きが失われていく。
子供はゲームが無くても楽しく遊べる。
スマホがなくても景色を楽しむことが出来る?
それがなぜか考えたことはあるだろうか?
それは所有し、支配するのでは無く自然や人と共鳴し、心を育てているからである。