月影横丁(つきかげよこちょう)を歩いていると、路地(ろじ)の奥から、場違いな気配が滲み(にじみ)出るように現れた。
その足取りは軽く、視線だけが妙に重かった。
物語をより深く楽しんでいただけるよう、この記事の冒頭にBGMをご用意しました。
よければ再生しながら、ゆっくり『たけくらべ』の世界をお楽しみください。
月影横丁を歩いていると、路地の奥に、ひとつの影が崩れるように座り込んでいるのが見えた。
近づくにつれ、それが人であること、そして女であることが分かった。
泣き声は低く、途切れ途切れで、顔には悲痛とも取れる表情が浮かんでいた。
それが本当に苦しみから生まれたものなのか、あるいは誰かの同情を引くための仮面なのか、信如(しんじょ)には判別できなかった。
仏(ほとけ)の道を歩む者として、倒れているものには手を差し伸べるべきではないか。
そう思う一方で、その一歩が、思いもよらぬ厄(やく)を呼び寄せることも、彼は知っていた。
立ち止まった信如の袖(そで)を、美登利(みどり)が静かに引いた。
「手を出す必要はないわ」
その声は、強くもなく、弱くもなかった。
ただ、迷いのない響きだけがあった。
「今は、私だけを見て」
信如は言葉に詰まった。
正しさを測ろうとする心と、隣にいる存在を失いたくないという思いが、胸の内でせめぎ合った。
結局、彼は美登利の言葉に従った。
確かに、今は自ら厄介ごとに近づくべき時ではない。
そう自分に言い聞かせながら、横丁を後にした。
それでも信如の心には、消えない影が残った。
もし、いつか自分がもっと強くなれたなら。
迷いなく手を差し伸べられるほどに成長できたなら。
だがそのとき、美登利が隣にいる未来は、きっと訪れない。
そんな予感だけが、静かに胸の奥に沈んでいった。
信如は、師から剣を学んだ。
剣とは本来、人を斬り、血を流すものだと、誰もが思っている。
だが、師はそうではないと言った。
「仏の剣は、人を傷つけるためにあるのではない。
人を助け、救うためにこそ、振るわれる」
その剣は「慈悲斬り(じひぎり)」と呼ばれていた。
居合(いあい)の構えから、一瞬の抜刀(ばっとう)。
刃は肉体には触れない。
斬るのは、相手の心に溜まった衝動と執着(しゅうちゃく)だった。
破壊ではなく、理解。
攻撃ではなく、受容。
「愛」「慈」「舞」「静」「助」「救」
漢字一文字の想念(そうねん)を、残圧として相手に浴びせる。
怒り、悲しみ、寂しさ、苦しさ、欲。
それらを切り裂くのではなく、ほどき、沈め、昇華させる。
血は流れない。
憎しみも生まれない。
それでも、人は救われる。
最初、信如が放った「愛」の一太刀は、形だけのものだった。
刃は届かず、文字だけが空に残った。
師は言った。
「慈悲斬りに、型はない」
一の型も、二の型も存在しない。
なぜなら、心には型がないからだ。
人の心は、常に移ろい、揺れ動く。
それを無理に型に押し込めることは、理解ではなく支配になる。
支配ではなく、救い。
それが慈悲斬りの本質だった。
信如は、その言葉を胸に刻んだ。
いつか、本当に誰かの心を斬れる日が来ることを、
そしてそのとき、失うものもまた大きいことを、
静かに悟りながら。
「この場面、使えません」
信如「斬る相手を間違えてしまった」
みどり「慈悲斬りの愛、ですね」
「この場面も、使えません」
信如「ここを通していただけますか(ピンクの浴衣を着ながら)」
刺客「ここから先は、香奈乃様の土地だ」
刺客「……その剣捌き(けんさばき)。
信如か」
信如「はい。
香奈乃さんのもとへ、ご案内いただけますか」
刺客「わかった。
着いてこい」
香奈乃の住む屋敷へ、みどりと信如は足を踏み入れた。
広い庭を囲む回廊と、高く伸びた軒(のき)。
みどりは、こうした屋敷に入るのは初めてで、視線の置き場に迷いながら、無意識に衣の裾(すそ)を整えた。
信如は、僧家(そうけ)の子として、こうした家に出入りすることには慣れていた。
香奈乃とも、これが初対面というわけではない。
それでも、屋敷の空気は、寺とは違う重さを帯びていた。
少し歩いたところで、みどりが立ち止まった。
「信如さま。
この先は、香奈乃さまとお二人で、お話しされた方がよろしいかと存じます」
その声は穏やかで、ためらいは見せなかった。
信如は、一瞬だけみどりを見た。
何か言おうとして、言葉を選び直すように、わずかに間を置いた。
「みどりが、それでよいのなら。
そうしよう。ここで待っていてほしい」
みどりは小さくうなずいた。
「はい。お待ちしております」
信如が歩き去る背を見送りながら、みどりはその場に留まった。
振り返ることも、引き止めることもせず、
ただ、決めた距離を崩さないまま。
冒頭のBGMと同じものになります。
よければ再生しながら、ゆっくり『たけくらべ』の世界をお楽しみください。
香奈乃と信如は、声を落として話をした。
言葉は多くなかったが、互いに進むべき道が同じ場所を向いていることは、確かだった。
今回の件は、檀家(だんか)の若女将である司(つかさ)が動いたのだという。
香奈乃は、淡々とそう告げた。
司はこれまでも、信如が檀家にふさわしくない相手と親しくなろうとするたび、同じように手を回してきた。
刺客は、そのためのものだった。
信如は、その話を聞いて、胸の奥で小さく息をついた。
香奈乃が直接関わっていたわけではないと知り、ほっとした自分がいた。
同時に、やはり司が動いていたのか、というざわめきも拭え(ぬぐえ)なかった。
そこまでして寺のことを思う気持ちは、重い。
だが、檀家の未来や繁栄を考えれば、必要な振る舞いなのかもしれない。
そう理解しようとするほど、胸の内に、鈍い痛みが広がった。
分からなくはない。
それでも、受け入れることはできなかった。
香奈乃は、そっと信如に寄りかかった。
このまま、ここにいてもよいのだと、その仕草(しぐさ)が語っていた。
だが信如は、静かに首を振った。
「みどりを、待たせています」
それだけを告げた。
香奈乃は、わずかに目を伏せ、やがて顔を上げた。
「また、会いに来てくださるのを、楽しみにしています」
名残(なごり)を含んだその言葉を、信如は受け止めた。
そして、穏やかに微笑んだ。
「これからも、香奈乃さんのことは、見守っています」
それ以上の約束は交わさず、信如は屋敷を後にした。
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